足利義教について

皆様、こんにちは。

司法書士の北村でございます。

 

最近、めっきり家にいることも多くなりました。

たまたまつけたテレビで太平記という大河ドラマの再放送をやっていました。

個人的に歴史ものは好きなので、結構面白く拝見させていただいております。

足利将軍家は、尊氏をはじめ、義満、義政、義稙等個性的な人物が多いのですが、その中でもとりわけ個性的な6代将軍足利義教について記載したいと思います。

恐怖政治が有名で「万人恐怖」と言われる一方、つい最近では彼の功績を評価する見直しも行われております。どのような人物だったのか書き記したいと思います。

以下は、あくまでも個人的な趣味の範囲での記載ですので、誤りがあるかもしれませんがご容赦いただければと思います。

 

生い立ち

足利義教は3代将軍足利義満の子として生まれました。

兄には4代将軍となる義持がいたため、仏門に入ります。

20代の若さで比叡山延暦寺のトップである天台座主になります。足利家の血筋も関係していたかもしれませんが、天台開闢以来の逸材とも称されており、非常に能力が高かったと推察されます。

兄である4代将軍義持が死去したことから、足利義教に転機が訪れます。

義持は将軍職は、義量に譲っておりましたが、実権を握り続けておりました。義量が若くして亡くなると、義持が前将軍として政務を執っておりましたが、義持も病気となり後継者を決める必要がありました。しかし、重臣から後継者を決めるよう言われても、拒否し続けておりました。そこで、重臣たちが一族の中からくじ引きで決めることを提案いたしました。義持はその提案を受け入れますが、時期は自分の死後にするように言いました。義持の死後くじ引きが行われ、6代将軍に足利義教が決まりました。

将軍をくじ引きで決めるということは、現代では奇異に感じるかもしれませんが、当時は神の信託に任せるという神聖な行為だったらしく神の意志で将軍に選ばれたということになるそうです。

くじ引きで将軍になったことからくじ引き将軍などと呼ばれておりました。

 

万人恐怖

足利義教といえば、苛烈な面が有名で、些細なことでも容赦なく処罰したことから、一般的には残虐な暴君のイメージがあるかと思います。

(足利義教は最初から恐怖政治を敷いた訳ではなく、九州における幕府の勢力圏が失われたこと、九州討伐を命じた守護がなかなか軍を動かさなかったことから、次第に恐怖政治へと舵を切ったのではないかとの研究もあります。)

足利義教が行った暴虐の例として下記のものが挙げられます。とても元僧侶(しかも元天台座主)が行った行為とは思いたくもないものばかりです。

 

・酌が下手との理由で、侍女を激しく殴り、断髪させた。

・闘鶏で人だかりができ自分の行列が通れなかったことから、都中の鶏を洛外に追放した。

・儀式中に笑った家臣に激怒し、所領を没収、蟄居させた。

・自分に説教しようとした日蓮宗の僧に灼熱の鍋をかぶせ、二度としゃべることができないよう舌を切った。

・延暦寺にいるころから恨みを抱いていた自分の側室の兄である日野義資に対して、所領を没収し、謹慎させた。側室(日野義資の妹)が義教の子を産むと、日野義資のもとにお祝いに訪れた客を全て処罰した。

・比叡山炎上の噂を流した商人を斬首した。

そのほかにも料理がまずい等の些細な理由で多くの人を罰したことが当時の記録にたくさん残っています。

伏見宮貞成親王は看聞日記で「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ」と書き残しています。

 

比叡山延暦寺焼き討ち

比叡山延暦寺の焼き討ちを行ったことで有名な武将として、足利義教のほか織田信長や細川政元が挙げられます。足利義教は恐らく最初に比叡山延暦寺の焼き討ちを行った者になるかと思います。

 

延暦寺は幕府に不正があったとして、訴訟沙汰になりました。管領細川持之の説得もあり、幕府は要求をのみます。ところがこの処分に納得できない一部の延暦寺の勢力が武力行使に打って出ます。これに怒った義教は延暦寺に打って出ます。戦いは幕府側が勝利し延暦寺側が降伏を申し出ます。当初、義教は降伏受け入れを渋りますが、管領細川持之のとりなしで和睦が成立します。義教は、延暦寺代表者4人を京に招くことにしました。しかし、彼らは義教を警戒し、なかなか応じようとはしませんでした。細川持之のとりなしでようやく京に4人が出頭したところ、義教は彼らを殺害します。怒った延暦寺側は抗議のため、根本中堂に火をかけ、一部の山徒が焼身自殺しました。この時に他の建物も焼かれてしまい、延暦寺の大半は焼失したそうです。

 

守護大名への介入と嘉吉の乱

足利義教は政治的には、父義満と同様に将軍権威を高めることを目指していたと思われます。室町時代は、合議制を敷き管領や守護の影響力が強かった時代です。義教は守護に依存していた軍事を改め、将軍直轄の奉公衆を再編し、自らの軍事力を強化しました。この力を背景に全国の守護の弱体化を試みていきます。

 

義教の最大のターゲットは鎌倉公方でした。鎌倉公方は足利尊氏の子である足利基氏の子孫が代々務めておりました。鎌倉公方は幕府に代わって関東を治める鎌倉府のトップです。当時の鎌倉公方である足利持氏は義持が亡くなると自分が将軍になるものと思っていました。そこにくじ引きで僧侶であった義教が将軍になったことを知るや事あるごとに反抗的な態度を取ります。これにより、幕府とは一触即発の関係になり、義教は介入する機会を窺がっておりました。そんな折、鎌倉公方を補佐する関東管領である上杉憲実が持氏と対立することになります。義教は天皇から綸旨を取り付け、持氏討伐に乗り出します。結果、幕府は勝利し、持氏を捕らえます。上杉憲実は義教に持氏の助命を願いますが、義教が許すはずもなく持氏は自害に追い込まれました。これにより、幕府と鎌倉府の対立は終わるかに見えましたが持氏の遺児安王丸と春王丸が立ち上がり、結城城に立てこもります。幕府は討伐を命じます。結果は幕府側が勝利し、安王丸と春王丸を斬首します。

 

また、九州征伐も断行し、九州探題を設置し九州も支配下に置きました。これにより、義教の時代に室町幕府の最大版図を築き上げます。

 

有力大名への介入もたびたび行っておりました。その手法は主に父義満の手法と同様、大名の相続に何かと理由をつけて介入し、弱体化を図りました。例えば、山名氏や畠山氏、斯波氏といった足利幕府の有力大名もターゲットにされました。

こうして義教は粛清につぐ粛清で徹底的に大名を統制いたしました。

播磨の守護である赤松満祐は、粛清を続ける義教に強い危機感を覚えました。そこで、赤松氏は、結城合戦の戦勝祝いと称し、義教を自宅に招きます。義教が酒宴を開いているところ赤松氏は義教を殺害します。これを嘉吉の乱と呼びます。

 

義教の評価

仏教界のトップといっていい天台座主を経験した人物とはとても思えない数々の暴虐を働いた将軍として、同時代においてさえも「万人恐怖」と称された苛烈な人物でした。暗殺という事態を招いたのも自業自得の面もあるかと思います。

一方で最近、義教を再評価する声もあります。天台開闢以来の逸材とも称されるくらいですので、相当能力が高かったことも推察されます。彼は、合戦においては生涯不敗を誇り、勘合貿易を復活させるなど経済面で多大な功績を残したことも事実です。室町時代は争いの絶えない時代でした。その1つの要因として、管領や各地の守護の力が強く並みの将軍では統制できなかったことが挙げられます。義教は恐怖政治によって自らの求心力を高め、事あるごとに守護大名の力を削ぐことに努め、室町幕府の安定に力を注いだとも評価できます。

 

 

素人がまとめたため、誤りがあるかもしれませんが、ご容赦いただければと思います。ご意見、リクエストがございましたらお問合せフォーム等でお知らせいただければ幸いです。

 

それでは、また。

無料相談ご予約・お問い合わせ

 

ページの上部へ戻る

トップへ戻る

0789559063電話番号リンク 問い合わせバナー